野上町の伽藍址
「伽藍」とは、僧が集まって仏道修行する清浄閑静な場所という意味だそうですが、後に大きな寺院または主要建物群を意味するようになったようです。
矢掛町の「伽藍山 極楽寺(址)」のように、奈良時代の僧であった行基菩薩がこの伽藍開創に深く関わっているようです。そして、後世になって伽藍の一つ一つの建物(坊など)が山の上から麓に下りてきて現在の寺院となっている例が非常に多いです。私見ですが、その際平安時代の密教であった真言宗と相性が良いようで、結果山から下りた寺院は真言宗の寺院であることが多いように思われます。
井原市でも、行基菩薩により天平年間に創建されたと伝えられる伽藍は、野上町の頂見寺、北斗山、南斗山などがあります。
さて、上の写真は、井原市野上町の頂見寺跡(址)を示したものです。この石碑は、千手院、智勝院、北之坊、文殊院、寶蔵院によって建立されています。
頂見寺は、天平九年に行基により開創後保元年間に一度焼失、那須氏により再建されたものの天文年間に尼子氏と毛利氏との戦で戦場と化し再び焼失したようです。10年以上前に現地に行った時には、付近の地面の上にまだ瓦の破片が散乱していたと記憶しています。
ちなみに、矢掛町の伽藍山に登ったときも山頂の地面の上に瓦の破片が散乱していました。
上から二番目の写真は、現在の千手院です。このお寺の裏庭には、岡山県指定の天然記念物である「浪形岩」があります。
なお、その次の写真は那須氏が千手院に寄進した梵鐘ですが、実はこの梵鐘はレプリカだそうです。本物は、笠岡市走出の延福寺(現持宝院)にあります。天文年間の戦で猿掛城主の庄氏が戦利品として持ち帰り、その後毛利氏の城攻めにより梵鐘は小田川に転がって落ちたそうです。それを地元の農民が拾い上げて所持していたが、小田氏が買い取り延福寺に寄進したとのことです。
ところで、千手院とともに智勝院は今なお野上町にありますが、智勝院はまさに写真の石碑のすぐ下のところにありました。一番下の写真が智勝院の本堂です。お寺の名前がどこにも書かれていなかったので、最初何のお堂なのか分かりませんでした。
一方、寶蔵院は井原市東江原町にあります。我が家も寶蔵院の檀家です。
ちなみに、寶蔵院の先代の住職は加賀尾秀忍(後に僧忍)と言い、太平洋戦争敗戦時フィリピンのモンテンルパ刑務所で戦犯の教誨師となったので、「モンテンルパの父」とも呼ばれその書も有名です。
P.S. 文殊院がどこに行ったのか分かりませんでしたが、後日東江原町の佛眼寺と文殊院が合併し両山寺となったことが判明しました。また、文殊院の本堂は寶蔵院に譲り渡されたそうです。なお、北之坊は今では民家になっているようです。
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